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浮気 - 浮気

2011/07/29 (Fri) 13:01:13

アナタの胸に秘めた浮気願望が暴かれる!?自分の浮気度を調べてみよう!自分ではわからなかった深層心理を分析、調査するのでアナタの秘めた願望が赤裸々に!自分の本当の気持ち、知りたくありませんか?

忘れた頃の聖書的引用集 - yuasa

2010/03/14 (Sun) 17:28:56


●ペテロの手紙第一 3章8―17節


 最後に申します。あなたがたはみな、心を一つにし、同情し合い、兄弟愛を示し、あわれみ深く、謙遜でありなさい。

 悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。

 「いのちを愛し、
  幸いな日々を過ごしたいと思う者は、
  舌を押さえて悪を言わず、
  くちびるを閉ざして偽りを語らず、
  悪から遠ざかって善を行い、
  平和を求めてこれを追い求めよ。
  主の目は義人の上に注がれ、
  主の耳は彼らの祈りに傾けられる。
  しかし主の顔は、悪を行う者に立ち向かう。」

 もし、あなたがたが善に熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。

 いや、たとい義のために苦しむことがあるにしても、それは幸いなことです。

 ……

 もし、神のみこころなら、善を行って苦しみを受けるのが、悪を行って苦しみを受けるよりよいのです。

Re: 忘れた頃の聖書的引用集 - yuasa

2010/03/16 (Tue) 02:58:51


●ペテロの手紙第二 1章5-10節


 こういうわけですから、あなたがたはあらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、

 知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、

 敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。

 これらがあなたがたに備わり、ますます豊かになるなら、あなたがたは、私たちの主イエス・キリストを知る点で、役に立たない者とか、実を結ばない者になることはありません。

 これらを備えていない者は、近視眼であり、盲目であって、自分の以前の罪がきよめられたことを忘れてしまったのです。

 ですから、兄弟たちよ。ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい。これらのことを行っていれば、つまずくことなど決してありません。

Re: 忘れた頃の聖書的引用集 - yuasa

2010/03/19 (Fri) 02:10:07

 ●ヨハネの黙示録 2章3-7節


 あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。

 しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。

 それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。

 しかし、あなたにはこのことがある。あなたはニコライ派の人々の行いを憎んでいる。わたしもそれを憎んでいる。

 耳のある者は御霊(みたま)が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実をたべさせよう。



ーーー

 ついに新約聖書の2週目において、最後の記事に入った次第でございます。
 ヨハネの黙示録は幻想文学的にみても非常に興味深い記事内容でございますし、信仰的にみても深い示唆を与えてくださる書物でございます。
 とくに「初めの愛から離れてしまった」という部分にはなるほど、確かに……と内省すべき点を感じる次第でございます。

 また、黙示録3章15節においても、

「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。
 このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。・・・」

 などとあり、非常なる示唆に富んだ内容でございます。自分の信仰がいかなる状態にあるか再点検する必要が生じてくる次第でございます。

今年も終わります - ゆあさ

2009/12/31 (Thu) 21:48:17

今年はNHK教育のクラシックを読みながら聖書を読んで終わるという素晴らしい教育的一日となりそうでございます。

ただいまはベートーヴェンの交響曲第7番をウィーンフィルが演奏しておりまして、まさしくベートーヴェンはやるな…という感じでございます。

Re: 今年も終わります - ゆあさ

2009/12/31 (Thu) 22:09:44


 ●エペソ人への手紙第2章3節-16節


 私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

 ・・・

 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。

 行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

 私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。

 ・・・

 キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、

 ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。

 ・・・

 敵意は十字架によって葬り去られました。

聖書的引用集 - yuasa

2009/09/23 (Wed) 22:48:20

●マタイ5章:3〜12節

心の貧しい者たちはさいわいである
天の国はその人たちのものである

悲しんでいる者たちはさいわいである
その人たちは慰められる

柔和な者たちはさいわいである
その人たちは地を相続する

義に飢え渇いている者たちはさいわいである
その人たちは満ち足りる

憐れみ深い者たちはさいわいである
その人たちは憐れみを受ける

心の清い者たちはさいわいである
その人たちは神を見る

平和にする者たちはさいわいである
その人たちは神の子と呼ばれる

義のために迫害されている者たちはさいわいである
天の国はその人たちのものである

わたしのためにののしられ、迫害され、ありもしないことで悪く言われるとき、あなたがたはさいわいである。
喜びなさい。喜び躍りなさい。……



ーーー

この世のすべての人間が救われるであろうことを想像させる天の御国へのいざないである……という感じです。

Re: 聖書的引用集 - yuasa

2009/09/27 (Sun) 22:57:29

●ミカ書6章6〜8節

私は何をもって主の前に進み行き、
いと高き神の前にひれ伏そうか。

全焼のいけにえ、一歳の子牛をもって
御前に進み行くべきだろうか。

主は幾千の雄羊、幾万の油を喜ばれるだろうか。

私の犯したそむきの罪のために、
私の長子をささげるべきだろうか。

私のたましいの罪のために、
私に生まれた子をささげるべきだろうか。

主はあなたに告げられた。

人よ。何が良いことなのか。

主は何をあなたに求めておられるのか。

それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、
へりくだって
あなたの神とともに歩むことではないか。

Re: 聖書的引用集 - yuasa

2009/10/01 (Thu) 00:32:08


●キルケゴール『死にいたる病』

 人生を空費した人間というのは、人生の喜びや人生の悲しみに欺かれてうかうかと日を送り、永遠に、断固として、自分を精神として、自己として自覚するにいたらずに終わった人だけのことである。

 あるいは、結局同じことであるが、神が現にいましまし、そして「彼」が、彼自身が、彼の自己が、その神の前に現にあるということに、絶望を通して以外にけっして得られることのないこの無限性の獲得に、けっして気づけなかった人、最も深い意味で、それについて感銘を受けることがけっしてなかった人だけのことである。

Re: 聖書的引用集 - yuasa

2009/10/04 (Sun) 22:07:01

 ●マルコの福音書7章15〜23節


「・・・外側から入って、人を汚すことのできる物は何もありません。人から出て来るものが、人を汚すものなのです。」


・・・


「人から出るもの、これが、人を汚すのです。

 内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、
 姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、

 これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」

Re: 聖書的引用集 - yuasa

2009/10/07 (Wed) 00:20:49


●マルコの福音書14章32〜38節


 ゲツセマネという所に来て、イエスは弟子たちに言われた。「わたしが祈る間、ここにすわっていなさい。」

 そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネをいっしょに連れて行かれた。イエスは深く恐れもだえ始められた。

 そして彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、目をさましていなさい。」

 それから、イエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、もしできることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈り、

 またこう言われた。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」

 それから、イエスは戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「シモン。眠っているのか。一時間でも目をさましていることができなかったのか。

 誘惑に陥らないように、目をさまして、祈り続けなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」

Re: 聖書的引用集 - yuasa

2009/10/11 (Sun) 04:21:19


●ルカの福音書6章27〜38節


「・・・しかし、いま聞いているあなたがたに、わたしはこう言います。あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行いなさい。

 あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。

 あなたの片方の頬を打つ者にいは、ほかの頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着も拒んではいけません。

 すべて求める者には与えなさい。奪い取る者からは取り戻してはいけません。

 自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい。

 自分を愛する者を愛したからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。罪人たちでさえ、自分を愛する者を愛しています。

 自分に良いことをしてくれる者に良いことをしたからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。罪人たちでさえ、同じことをしています。

 返してもらうつもりで人に貸してやったからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。貸した分を取り返すつもりなら、罪人たちでさえ、罪人たちに貸しています。

 ただ、自分の敵を愛しなさい。彼らによくしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いはすばらしく、あなたがたは、いと高き方の子どもになれます。なぜなら、いと高き方は、恩知らずの悪人にも、あわれみ深いからです。

 あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。

 さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。

 与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。・・・」


ーーー

 イエスの堂々たる平野での説教に、恥ずかしながらうみねこのなく頃にを思い出してしまった次第でございます…

Re: 聖書的引用集 - yuasa

2009/10/11 (Sun) 04:32:47


●ルカの福音書1章76〜80節

 …イエスに洗礼を授けるべく、主の道を整えるべく生まれた洗礼者ヨハネの誕生時、その父ザカリヤが預言した言葉。


「・・・幼子よ。あなたもまた、

 いと高き方の預言者と呼ばれよう。

 主の御前に先立って行き、その道を備え、

 神の民に、罪の赦しによる

 救いの知識を与えるためである。

 これはわれらの神の深いあわれみによる。

 そのあわれみにより、

 日の出がいと高き所からわれらを訪れ、

 暗黒と死の陰にすわる者たちを照らし、

 われらの足を平和の道に導く。」

 さて、幼子は成長し、その霊は強くなり、イスラエルの民の前に公に出現する日まで荒野にいた。

Re: 聖書的引用集 - yuasa

2009/10/22 (Thu) 01:57:49


●ルカの福音書15章1〜7節


 さて、取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄って来た。

 すると、パリサイ人、律法学者たちは、つぶやいてこう言った。「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。」

 そこでイエスは、彼らにこのようなたとえを話された。

「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。

 見つけたら、大喜びでその羊をかついで、

 帰って来て、友達や近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください』と言うでしょう。

 あなたがに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。・・・」

Re: 聖書的引用集 - yuasa

2009/10/29 (Thu) 05:27:22


 ●ヨハネの福音書8章3〜11節


 ・・・律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられたひとりの女を連れて来て、真ん中に置いてから、

 イエスに言った。「先生。この女は姦淫の場でつかまえられたのです。

 モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」

 彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。

 けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」

 そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。

 彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。

 イエスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」

 彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」



ーーー
エヴァ破のBGMをBGMにしたbraveheartくん・O山くんの議論動画を聞きながらこの箇所を読みますと、非常に泣けてくる次第でございます……。

「立派な人だと、立派な人だと思うけど、もうちょっと、もうちょっと真の善は立派じゃないかって」
「そもそもブレイブハートくん、あなたは、真の善をもっているんですか、あなたは」
「……もってませんね」
「じゃあ、それなら、もってない人間がどうして真の善をそれとわかるんですか」
「……(無言)……」
「自分はもってないのに、なぜ他人がもってるもってないっていえるんですか!!」
「……(無言、すすり泣く声)……なるほど……」

Re: 聖書的引用集 - yuasa

2009/11/08 (Sun) 20:46:20

 ●ヨハネの福音書15章9節〜12節

「・・・父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。

 もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。

 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。

 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。

 人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。・・・」


ーーー
 真実互いに愛し合うことによってのみ、イエス・キリストに新生の子として認められ、私たちは永遠のいのちにいたることができるのです……。
 アーメン、主よ!

Re: 聖書的引用集 - yuasa

2009/11/13 (Fri) 19:44:27

 ●使徒の働き15章1〜12節


 さて、ある人々がユダヤから下って来て、兄弟たちに、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と教えていた。

 そしてパウロやバルナバと彼らとの間に激しい対立と論争が生じたので、パウロとバルナバと、その仲間のうちの幾人かが、この問題について使徒たちや長老たちと話し合うために、エルサレムに上ることになった。

 ・・・

 エルサレムに着くと、・・・パリサイ派の者で信者になった人々が立ち上がり、「異邦人にも割礼を受けさせ、また、モーセの律法を守ることを命じるべきである」といった。

 ・・・

 激しい論争があって後、ペテロが立ち上がって言った。「兄弟たち。ご存じのとおり、神は初めのころ、あなたがたの間で事をお決めになり、異邦人が私の口から福音のことばを聞いて信じるようにされたのです。

 そして、人の心の中を知っておられる神は、私たちに与えられたと同じように異邦人にも聖霊を与えて、彼らのためにあかしをし、

 私たちと彼らとに何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。

 それなのに、なぜ、今あなたがたは、私たちの父祖たちも私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首に掛けて、神を試みようとするのです。

 私たちが主イエスの恵みによって救われたことを私たちは信じますが、あの人たちもそうなのです。」

 すると、全会衆は沈黙してしまった。そして、バルナバとパウロが、彼らを通して神が異邦人の間で行われたしるしと不思議なわざについて話すのに、耳を傾けた。


ーーー

 初代教会時代、おもにパウロの伝道によって異邦人にも救いがもたらされましたが、選民たるユダヤ人にとっての問題は、彼ら異邦人もユダヤ人のようにモーセの律法を守らなければならないということでございました。
 かつてパウロは律法に関して厳格なユダヤ教徒でございまして、キリスト信者を迫害しておりましたけれども、神に強烈な光を与えられ電撃的改心を体験いたしました。
 パウロは律法を完全に守ることは人間には不可能であることを悟っており、律法は人に罪をしか意識させないことを痛感しておりました。
 律法によって罪を知り、そしてただキリストを信じることによって、その罪がきよめられ、救いが与えられる。……

 パウロはそう考え、異邦人にあえて律法を強制することは避け、ただキリストのうちにあって偶像崇拝と不品行とを避けるようにと願っておったのでございます。

Re: 聖書的引用集 - yuasa

2009/11/30 (Mon) 02:42:15

 ●ローマ人への手紙12章4〜21節


 一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、

 大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。

 私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。

 奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。

 勧める人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれをしなさい。

 愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善に親しみなさい。

 兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。

 勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。

 望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。

 聖徒の入用に協力し、旅人をもてなしなさい。

 あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。

 互いに一つ心になり、高ぶった思いを抱かず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。

 だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。

 ・・・

 悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。


ーーー

 パウロの情熱がほとばしる、読んでいて身が熱くなるかのようなローマ人への手紙でございます。罪の誘惑に陥りやすい人間の性質をパウロはよく理解し、それを振り切って光の中を歩めと述べるその言葉に、われわれキリスト者は励まされ、また自身の罪性を戒める次第でございます。

Re: 聖書的引用集 - yuasa

2009/12/01 (Tue) 23:42:10


 ●ローマ人への手紙13章7〜14章


 あなたがたは、だれにでも義務を果たしなさい。みつぎを納めなければならない人にはみつぎを納め、税を納めなければならない人には税を納め、恐れなければならない人を恐れ、敬わなければならない人を敬いなさい。

 だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。

「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」ということばの中に要約されているからです。

 愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。

 あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行いなさい。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。

 夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。

 遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。

 主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。

Re: 聖書的引用集 - yuasa

2009/12/09 (Wed) 23:11:27


 ●コリント人への手紙第一 12章31節~14章1節


 また私は、さらにまさる道を示してあげましょう。

 たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。

 また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。

 また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。

 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。

 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、

 不正を喜ばずに真理を喜びます。

 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。

 愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。

 というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。

 完全なものが現れたら、不完全なものはすたれます。

 私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。

 今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。

 こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。

 愛を追い求めなさい。

Re: 聖書的引用集 - yuasa

2009/12/16 (Wed) 23:03:59

 ●コリント人への手紙第二 1章4節から7節


 神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。

 それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。

 もし私たちが苦しみに会うなら、それはあなたがたの慰めと救いのためです。もし私たちが慰めを受けるなら、それもあなたがたの慰めのためで、その慰めは、私たちが受けている苦難と同じ苦難に耐え抜く力をあなたがたに与えるのです。

 私たちがあなたがたについて抱いている望みは、動くことがありません。なぜなら、あなたがたが私たちと苦しみをともにしているように、慰めをもともにしていることを、私たちは知っているからです。

Re: 聖書的引用集 - yuasa

2009/12/21 (Mon) 00:51:28


●コリント人への手紙第二 4章8節から18節


 私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。

 迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。

 いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。

 私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。

 こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのです。


 ……


 ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。

 今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。

 私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。



 
ーーー

 勇気をもらうことのできるパウロの言葉、ひいては神の御言葉でございます。

Re: 聖書的引用集 - yuasa

2009/12/23 (Wed) 02:03:41


 ●コリント人への手紙第二 5章14節-20節


 私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。

 また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。

 ……

 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

 これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。

 すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。

 こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。

悔い改めぬ者を赦すこと――キリスト教も信徒に解脱を求めているのでしょうか。 - ゆ

2009/07/27 (Mon) 03:01:56

現代的賛美歌を僕も拝聴いたしましたが、ただひたすら、湯浅さんの偶像崇拝だという憤激はもちろんのこと、人間に対する神の怒りと悲しみ、そしてその悲憤に気づくことのない人間のちっぽけさを感じてしまいました。

キリスト教を司祭の独占から民衆へと解放していったプロテスタント、ラテン語をドイツ語に訳したルターは果たして……このような信仰を望んでいたのか、イエスの悔い改めよという言葉が脳裏に蘇ります。自らの罪を自覚せよ、という歌詞が一言もないのが、無宗教の僕にもおそろしく感じられました。

こういうものをやられると、僕は何となく、宗教に対して敬虔な信者たちがむしろキリスト教からイスラム教へと流れていくような気分が理解できました。なぜなら、宗教は人の生き方に一定の自律的な方向性を与えるもので、したがってその生き方に惹かれた人間たちの集団だと感じるからです。

エホバとキリストとアラー、同じ造物主を信仰しながら、その名を変えて伝えているこれら三大宗教で、一番教義的に優れているものは何か。一番生き方として優れていると感じられるものはなにか。興味は尽きません。

ただ、プロテスタント的な自由な宗教も、その自由に自制が伴う場合のみ、とても魅力的なものだと思います。プロテスタントは原則として、聖書の解釈権を一人ひとりの信者に委ねていると聞き及んでいます。聖書の解釈が気に入らなければ、みずからで宗派を新しく作り上げることが比較的容易い、ということを聞き、僕はその精神は非常に大切だなと感じました。

その意味でいえば、この現代的賛美歌もまた許されてしかるべきものなのかもしれませんね。
自由で、それでいて謙虚な精神を育むこと、いわゆる解脱に向かって日々生命と愛について触れながら、湯浅さんが霊的成長を遂げられることを祈っています。

Re: 悔い改めぬ者を赦すこと――キリスト教も信徒に解脱を求めているのでしょうか。 - yuasa

2009/07/28 (Tue) 01:46:16

クリスチャンとして生活してまいりますと、やはり宗教というものは教義によって優劣が決定さるべきものではない、ということを考えざるをえない、そんな日々でございます……。

大事なのは教義そのものではなく救済を信じる心、すなわち我らの主を「信じて仰ぐ」信仰心であり、そしていつかマリみてSSで書きましたが、人間は本当にその宗教を信仰したとき、決して一般的道徳に反する行為を行わないはずなのです。
本当の意味での信仰とは、元来人間に備わっている知性と感性とを充分にもちいるなかであえて信じるという行為であり、その信仰心は決して他者を排撃するような無知蒙昧なものにはなりえませんし、決して万人救済という神秘的感性の欠如した空虚なものにもなりません。

信じる対象は違えども、やはり一個人のすべての知性と感性、思想と感受性を介してのイスラム教であり仏教でありユダヤ教であると考えますと、同じ宗教的人間として彼らに共感せざるをえないものがあります。
おそらく主イエス・キリストも、そのような全人間存在を賭した正真正銘の信仰心であったならば、彼ら偶像崇拝者を大いなる慈愛の心で赦したまわり、「子よ、心安かれ、汝の罪、赦されたり」とおっしゃるだろうとわたくし個人は考えます。


何をこんこんと説明しているのかよく分からなくなってきましたが、つまるところ宗教とは教義ではないということです。
教義ではなく、大事なのは信じる人間が何を思い、何を感じ、何を考えているのかということです。信じた先に何を見出すかです。そしてわたくしの本音といたしましては、彼らが本当にすべての知性とすべての感性を使ったならば、イエス・キリストにいつか、たとえその死後であろうともいつか辿りつくだろうと感じております。

われらが生きる意味はなんなのか。
生きる意味というものは人間中心で考えたときまったく虚無に陥り、その虚無の陥穽に土砂を埋めるがごとく、われらは自分の思うがままに「生きる意味」というものの理由付けをいたします。
あるいは絶滅するために生きている、と考える方もおられるでしょうが、(略)。


そしてまた、聖書解釈は決して独りよがりなものになってはいけません、とわたくしはゆさんに申し上げねばなりません。
聖書の独自解釈というものほど恐ろしいものはなく、それは今、この瞬間、イエス・キリストの再臨と万人救済を願って決死の祈祷を行っている方たちの祈りを否定してしまうことになるのです。
われらは何のために祈るのか。なんのために信じるのか。ただ神がわれらのもとに来たもうためにのみ、われらは主を仰ぎ見ているのです。
その祈りを否定することはすなわち全世界のクリスチャンを否定することであり、わたくしはまさしくわたくしだけの神様をつくってしまうことになります。それはまさしく空虚な神様でございます。

感化されることを恐れてはならない。人前で祈ることを恥ずかしがってはならない。敬虔な所作をおこなうことを偽証として認めてはならない。敬虔な所作を照れてはならない。

本当に何を書いてるのかなぞですが、これがわたくしが教会生活を送って得た結論でございます。

Re:Re: 悔い改めぬ者を赦すこと――キリスト教も信徒に解脱を求めているのでしょうか。 - ゆ

2009/07/28 (Tue) 22:16:31

まず始めに、非常に興味深い返答をありがとうございます。湯浅さんの文章は模範的な宗教者の答えとして真摯に私の心に響いてきました。それはつまり、湯浅さんがそのまだあまりにもわずかな宗教生活において、すでに人並み以上の宗教性なるものを身に着けることができたことの証明であり、とても喜ばしいことと思います。

ですがそのことがまた、少し残念であると感じてしまった私もいるのです。湯浅さんの答えは、私にかつて感じていた湯浅さんとの一体感を遠ざけるものでもあるからです。というのも、湯浅さんが宗教と人間性なるものを一致的に捉えており、それが少し残念であるからなのです。人間の善性と宗教を結び付けることが、ひどく当然であるかのような、一種の迷いなき状態、まず信仰あり次に言葉ありの思考の道筋が、かつての湯浅さんとの違いを明白に教えてくれるようだからです。

私はいくつかのことを申し上げます。その内容には、湯浅さんの返答に対する幾分否定的なニュアンスが含まれていますが、私の意図としてはその反対で、湯浅さんの日記でよく見かける「分かち合い」というものに近いと感じています。いわば私は湯浅さんの言葉を聴きたいがために、私の言葉を投げかけ、そのために私の胸に宿っている何者かの言葉に耳を傾けるのです。

一つ、宗教を知らなければ、果たして人間の善性は獲得できないのか。
   換言すれば、かつての湯浅さんに善性は宿っていないのか。
   換言すれば、宗教とは何か。

まず湯浅さんの文章を引用することを赦してください。

「教義ではなく、大事なのは信じる人間が何を思い、何を感じ、何を考えているのかということです。信じた先に何を見出すかです。そしてわたくしの本音といたしましては、彼らが本当にすべての知性とすべての感性を使ったならば、イエス・キリストにいつか、たとえその死後であろうともいつか辿りつくだろうと感じております。」

私はこの言葉の前半に、むしろ非宗教性を感じてしまいます。同時に、宗教を越えた、人間の善性なるものが湯浅さんの心の中で強く意識されていることを感じます。湯浅さんの「教義ではなく」という言葉が、かえって逆に宗教なるものがいかに儚く弱いものであるかを示しているようにも思うのです。

なぜならば、上記における湯浅さんの認識では、教義とは無関係に、人の信じるという想いが大切である、となっているように感じられるからです。それではしかし、キリスト教である意味、ユダヤ教である意味、仏教である意味とはどこにあるのでしょうか。おそらく、湯浅さんの心底ではないのです。宗教以前に人間の善性なるものがあり、その善性を自覚するために宗教があり、そこにはむしろおのおのの神への一体感より、宗教による人間同士の心の一体感こそが重要なものとして根強くあるのではないでしょうか。

そしてこのことは、

「聖書解釈は決して独りよがりなものになってはいけません、とわたくしはゆさんに申し上げねばなりません。聖書の独自解釈というものほど恐ろしいものはなく、それは今、この瞬間、イエス・キリストの再臨と万人救済を願って決死の祈祷を行っている方たちの祈りを否定してしまうことになるのです」

という言葉と二重の意味で矛盾してもいるのです。

Re:Re:Re: 悔い改めぬ者を赦すこと――キリスト教も信徒に解脱を求めているのでしょうか。 - ゆ

2009/07/28 (Tue) 22:32:12

一つ目の矛盾は、論理の矛盾です。「教義ではなく、大事なのは信じる人間が何を思い、何を感じ、何を考えているかということです」という湯浅さんの言葉と、「聖書の独自解釈」を控えよという言葉との衝突です。教義ではなく人間の善なる信仰の導く先が大事であるという一つの言葉が、「聖書解釈は決して独りよがりなものになってはいけません」という言葉によって、途端に色あせてしまうのが分かります。

言うまでもなく、聖書解釈を厳守するというのは、教義を厳守するということであり、それはつまり教義の優越性を信じ、絶対性を信じ、そのことによって神に奉仕することを勧めることだと思います。このことを、湯浅さんは肯定的に受け止めています。その理由として、聖書の独自解釈は他者の祈りの否定に繋がるからしてはならないと仰います。

しかし、なぜ個々人の解釈の差異が、祈りの、ひいては信仰の否定に繋がるのでしょうか。私が思うに、そうであるならば、ある宗教の祈りと、その他の宗教の祈りは、およそ共存することができない危険性を感じるのです。つまり、キリスト教のみを信じ、キリスト教のある一つの聖書解釈……すなわちカトリックのような、絶対的解釈権をひとりの人間に委ねよ……ということに繋がりかねないと。

むろんこのことは、湯浅さんもお分かりだと思います。そして祈りの差異、解釈の差異は、その人が真に宗教的人間であるならば、自身以外の聖書解釈ならびに他の宗教の排斥へと繋がるはずがないと、仰ってもいます。言い換えれば、湯浅さんは心情的に、すでに聖書の独自解釈を赦しているのではないでしょうか。


二つ目は、上述したことから見えてくる、湯浅さんの心と心の矛盾です。言葉と言葉の矛盾は、自然に湯浅さんの心に、キリスト者としての心と、宗教に関係なく人間の善なるものを信じる心との、限りない衝突を私に教えてくれます。

言ってしまえば、湯浅さんは湯浅さんという宗教の信者であるように感じます。そして、その自分自身の宗教を極めるために、キリスト教を手にとってみた、というのが実態だと思います。その過程で、キリスト教におおいなる可能性を垣間見たことは、もちろん嘘偽りなき事実だとも思います。ですが湯浅さんは、ここは声を大にして申し上げたいのですが、キリスト教に出会う遥か昔から、宗教者であり、善人であったと私が確信しているという事実です。

以上までの独白で、私は、
一つ、宗教を知らなければ、果たして人間の善性は獲得できないのか。
   換言すれば、かつての湯浅さんに善性は宿っていないのか。
   換言すれば、宗教とは何か。

の上から二つを語りました。つまり、湯浅さんは人間の善性は宗教如何によらず初めから在るものと「感じ」ており、またその感覚は自身が宗教者になる以前より「善性」を宿した宗教者であったから生じたものである、と。

またその二つを語ることで、すでに三つ目のことにも言及しています。すなわち宗教とは、教義である、と。特に、その宗教の独自性を唯一保つことのできるのは、その宗教の神と、教義と、それによる生活に他ならないのだと思います。そして同時に、湯浅さんがもし昔のままの湯浅さんであれば、私と同じ論理の道筋をたどったことでしょう。しかし湯浅さんは信仰による矛盾を内包せざるをえなくなり、その矛盾を矛盾のまま貫く必要があり、だからこそ(略)

したがって、宗教の本質が教義である限り、教義を比較することは無駄ではないのではないでしょうか。すでに一つの宗教を選択した人間にとっては無意味ですが(なぜなら、宗教とは信じることで比較することではないからです)、無宗教者にとってはいつも教義を比較する必要があるのではないでしょうか。その人が、本当に宗教に熱心であるからには……。

何が言いたいのか私も分かりませんが、読み返してみて、いくつか分かりました。聖書の解釈に独自性をなるばく認めないという湯浅さんの言葉と、教義ではない人間の信仰心を大切にするという言葉との、本質的な食い違いについて述べた結果になっていますね……。
 
まだまだ分かち合いたいところではございますが、そろそろ筆を起きます。私の言葉は、湯浅さんの言葉でもあるように感じています。湯浅さんの返答を楽しみにしながら、私は私の信ずる神……それは書物のなかに宿る何かだと思いますが……にお祈りいたします。アーメン!

Re: 悔い改めぬ者を赦すこと――キリスト教も信徒に解脱を求めているのでしょうか。 - yuasa

2009/07/29 (Wed) 02:09:24

 返答をいただき、クリスチャン的に申し上げるならば「まことに感謝です」。矛盾を看破なさるとはさすが湯さんですね。思うに、その言葉が矛盾してしまう原因は、わたくしが「ノンクリスチャン」としての自分を意識しており、同時に「クリスチャン」としての自分を意識しているからなのではないかと分析いたします。

 それはこうとも言えます。20数年蓄えてきたノンクリスチャンとしての自分のなかに、クリスチャンとしての自分という要素を半強制的に融合させていった結果なのだと。

 わたくしは盲目を嫌います。
 そのためクリスチャンホームで育った根っからのクリスチャンというものにあまり信頼を置けません。刷り込みによる信仰がはたして真の信仰なのかと考えてしまうからです。

 脳裏にちらりと生じるこの自己正当化的疑念は、図らずも自分が精神的に「父なる神」に反骨していることを明らかにしてしまうのですが、しかしわたくしはそれでも「父なる神」がおられることをもはや事実レベルで信じているのです。

 思想というものは、抽象でこねくり回す段階を過ぎ去り、次の段階に一歩進むと(それはおそらく「祈り」という自己暗示的作業によって行われます)もはやその人間の内部において嘘偽りなき事実へと昇華されるのです。
 聖書のままの創造論こそ信じるにいたってはおりませんが、主がこの世のすべてのものを造りたもうたことを疑ってはおりません。最初の人間がわれわれのような人間だったわけがない、しかし最初の生物、最初の種を造りたもうたのは主であり、わたくしたちは主の無限の慈愛をもって宇宙という箱庭のなかに生き暮らしておるのです。
 人間が滅びないのは主がそうしないからであり、そして人間がもし滅びたならば、それは主によって別の存在へと形態を変化させられたとわたくしは考えることでしょう。あるいは全人間が天の御国に参することができたと。

 しかし一方、自分のなかで、聖書の記述どおりその創造論を信じたいという葛藤もございます。
 いつかどこかで申し上げましたが、「そう信じられたらどんなにいいか」と思わざるをえません。それこそ完璧なクリスチャンであり、完璧な信仰心であり、完璧な主の御子となれるのですから。

 しかしながら、やはり思考停止というものを恐れざるをえません。
 あきらかに聖書どおりの事実を受け入れるのは健全な人間存在のなすべき所業ではございません。すなわち主がそう望んでおられるわけはないのです。
 人間が科学を発展させていったことも主のなされた業であり、すなわち現代に生きる人間がその思考力をもちいて聖書を読解することは主の御旨にかなう行いであるはずなのです。

 しかしその考えは教会が教えることとは矛盾します。教会は聖書の事実を文字通り信じることを洗脳的にわたしたちに働きかけ、そしてわたくしはそれに内心反発するのです。

 このあたりの悩みが、おそらく矛盾を生じさせるのでしょう。われわれ人間のこの頭脳を駆使することも神の御旨であるはずであり、そして無条件に、真実盲目的に神を信じることも神の御旨であると、どうしてもこの矛盾を解消することができず、その矛盾を内包してわたくしは信仰せざるをえないのです。



 以上をもってとりあえずの返答としたいと思いますが、それだけではなんですので、いくつか湯さんの疑問に直接ご返信したいと思います。

「宗教を知らなければ、果たして人間の善性は獲得できないのか」

 この問題について、わたくしは、神に造られたわたくしたち全ての人間が、全て善性を抱いていることを確信しております。

 もちろんその善性はキリスト教を信じている、信じていない、偶像崇拝をしている、していないによって左右されることはありません。われわれ人間は、その存在からして神によって愛され祝福されたものであり、そのなかに罪悪はありますが、存在論的にすでに「善」であるのです。主は人間を愛し哀れんだからこそ、その独り子イエス・キリストを十字架につけてまでも、われわれを赦したもうたのです。

 イエス・キリストの十字架の贖いを信じた全ての人間は、たとえそれ以前に何の罪を犯していたとしても、その内部に抱えていた小さな良心すなわち「善」をもってみずからの体の表皮を覆わせ、みずからその体を新しくするのです。

Re: 悔い改めぬ者を赦すこと――キリスト教も信徒に解脱を求めているのでしょうか。 - yuasa

2009/07/29 (Wed) 02:13:00


 湯さんはこうおっしゃいました。


「湯浅さんの『(大事なのは)教義ではなく(人間が何を信じ、何を見出すかである)』という言葉が、かえって逆に宗教なるものがいかに儚く弱いものであるかを示しているようにも思うのです」

「なぜならば、上記における湯浅さんの認識では、教義とは無関係に、人の信じるという想いが大切である、となっているように感じられるからです。それではしかし、キリスト教である意味、ユダヤ教である意味、仏教である意味とはどこにあるのでしょうか。おそらく、湯浅さんの心底ではないのです。宗教以前に人間の善性なるものがあり、その善性を自覚するために宗教があり、そこにはむしろおのおのの神への一体感より、宗教による人間同士の心の一体感こそが重要なものとして根強くあるのではないでしょうか」


 微妙なすれ違いで説明しにくいのですが、わたくしはクリスチャンとして、すべての人間は主によって造られ、主によって愛され、主によって「善」とされていると考えております。

 もはや「何を信じるか」ではなく、本気で神的なものに己の全てを捧げようとする人間の愛苦しい精神が、その健気な心が、わたくしたちを造りたもうたイエス・キリストに伝わらぬはずがないと思っているのです。

 そういう意味で、わたくしは湯さんのおっしゃるとおり、信じる対象が「キリスト教である意味、ユダヤ教である意味、仏教である意味」はないと考えております。どれだけ真実神を求めているかが大事なのです。堕落せしキリスト者ももちろん主の再臨のときに救われますが、迫真的な偶像崇拝者ももちろん救われるでしょう。

 悲しいことに、裁かれてゲヘナに落ちてしまうのは、自身の内部深くにある「善」に最後まで気づくことのできなかった方たちなのだと思います。


(そして地獄に行く人間があるということを、わたくしは信じていながら信じていないという、解消されぬ矛盾を日々感じております。神は決して愛する人間を地獄になど送りはせぬ。そしてだからこそ、神は再臨されないのだと考えます。わたくしたちの祈りは、主の再臨の待望とともに、そのための世界宣教のための祈りなのです。しかし主よ、主のなされるままに!)



 次に、聖書の独自解釈を許さないことについて述べたいと思います。


「一つ目の矛盾は、論理の矛盾です。『教義ではなく、大事なのは信じる人間が何を思い、何を感じ、何を考えているかということです』という湯浅さんの言葉と、『聖書の独自解釈』を控えよという言葉との衝突です。教義ではなく人間の善なる信仰の導く先が大事であるという一つの言葉が、『聖書解釈は決して独りよがりなものになってはいけません』という言葉によって、途端に色あせてしまうのが分かります」


 この点の矛盾も、わたくし自身日々感じております。
 わたくしのなかでは、相反する2つの論理がせめぎ合っておるのです。すなわち、


 ①他者の信仰を否定してはならない。
 ②聖書的信仰を信仰のモデルとすべき。

Re: 悔い改めぬ者を赦すこと――キリスト教も信徒に解脱を求めているのでしょうか。 - yuasa

2009/07/29 (Wed) 02:16:30

 この2つの命題が、つねに内部で戦っております。

 自分としては、他宗教や未信徒の方はまったく問題ないのです。彼らはただ単にキリストに出会うのが遅いだけで、そのうちキリストに出会うのでしょうからその信仰や独自解釈を否定しないだけで足ります。

 問題はクリスチャンなのです。クリスチャンがわたくしたちの神を誤って感じ取っている、そのことが一番の問題だとどうしても感じてしまうのです。


 そう、つまるところ湯さんの危惧されておられる


「キリスト教のみを信じ、キリスト教のある一つの聖書解釈……すなわちカトリックのような、絶対的解釈権をひとりの人間に委ねよ……ということ」


 をわたくしは本音では良しとしているのです。「ひとりの人間」とは偏狭な自分自身であり、同じ教会のクリスチャンの信仰を否定し、自分の信仰を押し付けているのはまさしく自分自身でございます。

 ただ、一応今のところは、ある教団に属すために洗礼を受けたならばその教団の教えに感化されるべきであると考えます。感化を拒否するのであるならば洗礼を受けるべきではないし、また洗礼を受けたあとに教会に相容れないものを感じたのならば教会から足を遠のけるべきで、あるいは別の教団に転籍するのがよろしいのではないかと考えるのです。


 何も独自解釈を禁じているわけではございません。

 わたくし自身さまざま独自解釈をしております。問題なのは「感化を拒否する」という姿勢です。そして「感化を拒否する」という姿勢こそが偏狭かつ妨害的な「独自解釈」なのです。

 この辺については「聖書って何?その2」で若干述べたように思いますので、そちらにあたっていただきたく存じます。



「したがって、宗教の本質が教義である限り、教義を比較することは無駄ではないのではないでしょうか。すでに一つの宗教を選択した人間にとっては無意味ですが(なぜなら、宗教とは信じることで比較することではないからです)、無宗教者にとってはいつも教義を比較する必要があるのではないでしょうか。その人が、本当に宗教に熱心であるからには……」


 この部分を再読し、今まで自分が書いてきたことが的外れなものだったことを危惧せざるをえないのですが、なるほど確かにそうです。

 今までわたくしは宗教者としての立場からその考えを説明してきましたが、確かにいまだ決断せぬ未信徒の方からみたとき、教義と生活以外に判断材料はないとしか言いようがございません。

 ついわたくしも、クリスチャンの方に向かって発言するように、前の記事を書いてしまったところがあります。その点ノンクリスチャンの方には不思議に写ったということ、非常に参考になりました。感謝いたします。




 それでは今日はこの辺で。

 主よ、あなたの御手をどうかこの世のすべての人間に差し伸ばしてください。そして彼らが罪から、その悩みから解放され、ああ主よ、あなたの御名を賛美する感謝をその身に感じることができるように、どうか主よ、われらすべてを導いてくださいますようにお願いいたします。
 主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

無題 - ふ。

2009/06/09 (Tue) 12:31:22

説明の長さだけでお気に入り度合いがわかります(笑

ひぐらしとか、うみねことか。

Re: 無題 - yuasa

2009/06/09 (Tue) 14:42:58

まさしく、うみねこは理想的文学ギャルゲーに限りなく近いので褒めざるをえないというものがあります……恐ろしい!

「私を虚空に視て」とか
「ママは有罪だッ!」
「愛と悲しみと怒りがなければ魔法は視えない」
「さぁさ、思い出してご覧なさい。自らの罪を」

とかのそれっぽい台詞に強烈なテーマ性を持たせることのできる竜騎士は、やはり奈須の数倍は思想的バックボーンがしっかりしているなって思わざるをえなく、その点奈須とは違ってやるな…って思います!

特にEP4(未プレイですが)ではついに、「不信仰が神の御業の働くことを不可能にする」という問題にも着手している点、ほんと感心。
聖書にはイエスが故郷ナザレにおいてその存在を軽視され、奇跡を起こすことができなかったと書いてあるのですが、この理由を「反魔法毒素」や「愛と悲しみと怒りがなければ」とかで真剣に説明するうみねこ。

とりあえず竜騎士のキャラクターに対する共感能力の高さに感心しきりです……
http://www.nicovideo.jp/watch/sm6879748
このMADにマジで刺激されました!

ハメルン - ふ。

2009/05/28 (Thu) 15:44:54

なべ先生の
ハーメルって結局、
続編みたいな新連載やっちゃったーよねー。。。

しぇるくんちく、覚えにくーい。

Re: ハメルン - yuasa

2009/05/28 (Thu) 21:27:42

シェルクンチクは相当覚えにくいですよね……
なんか絵も顔が横に広くなっちゃって人間の顔にみえず、もうちょっと画風を変えたほうがいいんじゃないかなって思ってしまいます!

でもハーメルは僕たちの世代のバイブルといっても過言じゃないですよねー。(読者限定!)

無題 - brave heart URL

2009/05/17 (Sun) 05:55:50

久しぶりです。
ブログ移転しましたので、リンク変更お願いします。
http://blog.livedoor.jp/braveheart2009/

Re: 無題 - yuasa

2009/05/17 (Sun) 14:34:59

お懐かしい!
お久しぶりです、brave heartさん。

brave heartさんのブログ更新、心からお待ちしております……

孤独なつぶやき - yuasa

2009/03/29 (Sun) 16:47:34

24のシーズン4を何となくニコニコ動画で見始めたのですけれど、これがやっぱり面白いですね

塾がお休みの日に12時間ぐらいかけて一気に15話ぐらいまでみたのですが、まさにやめ時が見つかりません。

大統領が乗ったエアフォースワンが普通にミサイルで撃墜されちゃったり、テロリストを引き止めるためジャックがコンビニ強盗をしたり、ほんと眼が離せません。

恋人の目の前で恋人の元カレみたいなひとを電気でバチバチ拷問するジャック・バウアーが、ほんとすごすぎでした。


恋人「いやー、やめて、ジャック! やめてあげて!」
ジャック「見てられないなら部屋から出て行けぇ!!」
元カレ「おい、どうせハッタリだろ……?」

(バチバチ元彼の身体に電気を通す)

元彼「ぐああああ!! うぎゃあああ!!」
ジャック「さあ、吐けぇ!! 吐けぇ!!」
恋人「イヤぁぁぁ! やめてぇぇ!」


ほんとつい笑っちゃうほど面白いです!

Re: 孤独なつぶやき - yuasa

2009/04/05 (Sun) 01:34:08

今は24のシーズン4、5を見終え、6を見てるんですけど、もう6の洒落にならない被害の甚大さには相当驚きました…

すでに序盤の4話でロスで核爆弾が爆発し、ジャックと大統領が口をあけて「なんてことだ…」ときのこ雲を眺めるという凄まじい展開。
ジャックも初めて「俺にはもう無理だ」と嗚咽をもらしながら弱音をはいていますし、いろいろ大変だなって感じです!

ロスの一部が広島長崎のような状態になるっていうのはもうすげえなって感じですけれども、被害がちょっと軽くみえるのが残念なところです。
もっとやばくなると思うんですけどね!

Re: 孤独なつぶやき - yuasa

2009/04/11 (Sat) 03:23:15

 シーズン6を見終わったんですが、最終話のジャックの可哀想な様子がほんとマックスって感じで、シーズンが進むごとにジャックは本気で孤独になっていくな……って感じです。

 シーズン6でジャックが自分で殺した重要人物は、ジャックの仲間のCTUの一人と、あと自分の父親。さらに自分の弟を拷問したりしてる上、ジャックを追いかけて中国に拉致された恋人のオードリーは薬物による拷問のせいで廃人になっている。ジャックはオードリーのためにオードリーと決別することを決心する。


 最終話は、ジャックの自殺一歩手前の表情をうつして終わり……!
 まさしく「俺はすべて国のために尽くしてきたあ! なぜ俺を中国から救いだしてくれなかった!」とはじめて上官にマジギレするジャックがほんと怖かった……っていうラストなんですけれど、シーズン7が楽しみですね! これ以上どうやって不幸になるんだろうっていう感じで…。

Re: 孤独なつぶやき - yuasa

2009/04/14 (Tue) 00:13:27

 24のシーズン7は、ニコニコに吹き替え版がなかったので挫折してしまいました…。ほんと、ジャックはあの声があるからこそ魅力的なのに…って感じです。

 で、かわりにプリズンブレイクのシーズン1を、ニコニコに普通にあったので見始めたんですけど、こっちもこっちで普通に面白いですね。やめ時がやっぱり見つかりません。
 24はジャックがいれば何とかなるのでまったく危機感なく見れますが、プリズンブレイクはハラハラしまくります。
 万能主人公も、たまに看守や囚人仲間に死ぬほど痛い目にあわされますし、なんか計画がずれてきちゃったり、脱獄メンバーが増えちゃって誰かが抜けなくちゃならなくなったりと……どうするんだろう、って本当に目が離せません。

 でも、今のところ24のほうが面白いかなって感じです! 24のほうが見てて爽快感があります!

Re: 孤独なつぶやき - yuasa

2009/04/22 (Wed) 22:52:01

プリズンブレイク、シーズン1面白かったです…
最初は静か過ぎてつまらないなーって思ってたんですが、徐々に主人公たち囚人同士の人間関係が複雑になっていくと、半端なく面白くなりますね!

囚人たちが危険かつ怖すぎてマジ渋いです…

で、プリズンブレイクのシーズン2も5話ぐらいまでは死ぬほどつまらないのですが、6話ぐらいから脱獄した元囚人が一同に会しはじめ、また恐ろしい喧嘩をしつつも共同作業をはじめる・・・あたりから面白いですね!

プリズンブレイクはシーズン1だけ見たら、24より評価を高くしたい感じです

Re: 孤独なつぶやき - yuasa

2009/04/30 (Thu) 03:11:13

プリズンブレイクのシーズン3が結構面白いかもって感じです。
シーズン1の面白さを取り戻そうと製作者があがいているのが何となく伝わってきまして、主人公のマイケルが今度はパナマの監獄から脱獄しようと奮闘しています。
キャラ人気も固まってきたらしく、人気がないであろうキャラは死んだり退場したりして、まさしく人気キャラだけで物語を展開させていくその商業主義に……アメリカの潔さを感じます! ERもそんな感じで成功してましたしね!


話は変わりますが、聖書……これを読むことはクリスチャンにとって物凄い大切なことなのですけれども、大切すぎて少々読むのがもったいないと思うときもあります。
つまるところ、観念と精神の呼吸が整えられていないときに読むことを躊躇し、また特に新約聖書は深すぎて読解するのに疲労してしまうので、体調が万全じゃないと読みにくい……という感じです。

はたして真実、もし神の言葉がこの書物に宿っていると考えたとき、その書物を開く勇気のある人間がいかに居るか!
聖書に神の真実をはっきり垣間見る人間はおそらく聖書をそれほど読まず、神と人間を対等の存在と認める不敬な人間が――そして聖書の一言一句から神の本意をはかろうとしない怠惰な人間が、おそらく聖書を気軽に毎日読むのだ……と逆転の発想を思いつき、あとで学生クリスチャンに言ってみようと思いました。

Re: 孤独なつぶやき - yuasa

2009/05/05 (Tue) 20:39:10

神は誰にとっての神であるのか
神は自身にとっての神であるのか
神は他者にとっての神であるのか
神は人間にとっての神であるのか
神は自身の思想信条を正当化する存在なのか
神の思いを誰が理解しようか
神に全て頼るとき、その人間は決して口を開いてはならず、ただ沈黙して微笑すべし


と思いました。
神の御旨をなぜそうも断言することができるのか、と社会的活動を行っているクリスチャンの人のブログをみて思ったというわけですね。

社会的活動というのは人間に働きかける活動であって、神に働きかける活動であるはずがない。神に働きかける活動であるならば、社会に対して活動するはずもなく、ただ個人として祈るのみのはずじゃないでしょうか……

しかし、確かに聖書は社会的活動をにおわすような記事を書いている。奮起させるような記事を書いている。われわれクリスチャンは、すなわち人間に働きかける権利を持っているとでも言うのですか。それならば、誰がその働きを監督するのですか。牧師ですか、教会員ですか、しかし彼らも当然人間でございます。無謬ではございません。

おそれず大胆に御言葉を伝えよ、という聖書の記述は、すなわちわれわれの誤りをわれわれは容認すべしということなのでしょうか。
しかし聖書解釈は……わかりません。教会の聖書解釈というものは、明らかに恣意的です。おそらくルターの解釈でさえ恣意的といわざるをえません。もしその解釈を恣意的でないとするならば、何をもって恣意的でないとするのですか。
聖書ですか、福音書ですか、パウロの手紙からですか……しかしそれらを聖書とみなしたのは、人間でございます。
つまり人間というものは、恣意的解釈から逃れることができないとしか言えず、そのとき、聖書の御言葉をおそれず大胆に伝えることの意義が問われるのです。
もっといえば、おそれず大胆に伝えなさい、というのは、他者に非難されることを恐れるのではなく、自身の言が間違いであることを認め、かつそれでも奮って伝えなさい、という解釈であるべきじゃないでしょうか。


神の名のもとに絶対の自信をもって運動を起こす人間は、神の名のもとに戦争を起こす人間と何が違うのでしょう…

リンクミス? - 河戸

2009/04/11 (Sat) 22:46:59

トップページの新約聖書のリンクが世界文学になっています。URLは間違えてないようなので編集ミスでしょうか?

Re: リンクミス? - yuasa

2009/04/12 (Sun) 15:56:09

河戸さんありがとうございます!
なにがおかしいのかよく分からなかったのですが、一度ファイルを削除してまたアップしたら直りました。

多分世界文学のトップのファイルを新約トップの名前で上げてしまったのかな…って感じです。


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